2010年04月18日

一枚の地図より

 古い地図…、地元の古い地図を見るのが好きなのですが、
神戸港近辺の街の地図に比べて、明石や垂水の地図は
少ないように思います。

 昭和19年(1944年)編集の垂水区舞子近辺の
地図を手に入れることができました。当時の日本は
戦争中で、戦時改描(軍の施設、鉄道、道路、港などの
軍事的に重要な施設を地図上に偽って表現)が行なわ
れた後、1942年(昭和17年)からは、地図そのものの
販売が禁止されたようです。

 下の地図は…、米軍編集の地図で、昭和10〜12年
頃の地図を基にして、昭和17年頃までの施設等の情報を
描き込んで作成された地図のようです。(地図をクリック
すると大きく表示されます。)

100418z.jpg

 今の舞子ビラは有栖川宮舞子別邸跡地であり、遡れば
烏崎城があった場所になりますが、大正期以降は住友家の
迎賓館だったようです。山田駅と記されている山陽電車
の駅は、昭和昭和10年に舞子駅、そして昭和12年には
西舞子駅と改称されていますが、それ以前の駅名のまま
です。

 山陽電車舞子駅の場所が、現在の舞子台2丁目では
なくて舞子台5丁目になっています。これも古い
情報のままではないかと思います。

 平池…、今は住宅地となっていますが、戦後埋め立て
られて六甲工業高校(後の神戸高専)のグラウンドに
なった場所で、明石海峡大橋の建設時に移転して、今は
住宅地になっています。

 当時の山田の集落は、現在の西舞子駅の北側、山田川の
川東がメインで、それ以外は、現在の舞子台3、4丁目の
三菱重工の社宅が、昭和初期からあったのかなあ〜と…

 この地図の「橋」は鉄橋か、石橋か、木橋かの区別が
されており、軍事目的であったことが色濃く出ているもの
です。



 戦後も白黒2色刷だった日本の地図、戦時中は地図の
発売自体が禁止されていましたが、米軍は、地図の情報に
錯誤を含みながらも、すでに多色刷の地図を持っていた
ようです。

 この地図を見ると、今は西舞子〜舞子と呼ばれている
辺りが、昭和の初期には川西(山田川の西)、山田、
舞子ヶ浜という呼び方をされていたのかなあ〜と、この
地図を見ながら想像を逞しくしています。
posted by student at 22:22| 日記