2010年01月17日

震災15年の朝、漱石の『こころ』を通して

 震災から15年、昨日はラジオで上仲まさみの「大志よ!」
を聞いて、そして漱石の日記から、娘ひな子の突然の死に
際しての記述の部分を読んで、改めて震災から15年の
この日に、漱石の小説『こころ』における、Kと先生の死
を考えてみました。



 国費での英国留学から戻ってきた漱石は第一高等学校の
英語の教師になります。前任者が小泉八雲で、英国留学で
神経衰弱になっていた漱石は、評判が良かった小泉八雲と
比較されて人気がなく、授業も形式的だったようです。
明治34年までは日記もあり、明治37年以降の断片も残って
いるのですが、明治35年と明治36年は日記も残っておらず、
空白の期間になります。

 藤村の英語の授業を担当していた漱石は、授業中に
藤村を 叱責し、その数日後の明治36年5月に 藤村は
遺書「巌頭之感」を残して華厳の滝で入水自殺をします。
その知らせを聞いて、漱石は 自分の叱責が原因で自殺
したのかとかなり動揺し、神経衰弱が 更に悪化した
原因とも言われています。

 藤村の死の原因は…遺書の内容より哲学的な悩みに
よるもの とも言われていますし、自殺の前に藤村が
失恋していたことが 後に明らかになって、失恋の故の
死とも言われています。

 朝日新聞の『こころ』の連載は1914年(大正3年)
4月から始まって8月までですが、遡る11年前の藤村操の
自殺が、この小説の中のK の死として顕れのではないか
と思います。



 漱石は、少なくとも藤村の自殺に対して共感していた
とは 私には考えられません、むしろ、自殺という行為に
対して 嫌悪感を感じていたのではないでしょうか?
そして「死」に 対して無力感をさえ感じていたように
思います。娘ひな子の突然の死に際しての漱石の日記では、

  昨日は葬式今日は骨上げ、明後日は納骨明日はもし
 するとすれば待夜である。多忙である。然し凡ての
 努力をした後で考へると凡ての努力が無益の努力で
 ある。死を生に変化させる努力でなければ凡てが
 無益である。こんな遺恨な事はない。・・・

  また子供を作れば同じぢやないかと云ふ人がある。
 ひな子と同じ様な子が生まれても遺恨は同じ事で
 あろう。愛はパーソナルなものである。・・・

     明治44年 11月29日の日記より

 「死を生に変化させる努力でなければ凡てが 無益である。
こんな遺恨な事はない。」との漱石の日記の言葉が、心に
残ります。



 Kの死に、漱石は何らかのメッセージを込めたとは、
私は思えません。そして当時の読者は、漱石の『こころ』を
読んで、11年前に世間を大きく騒がせた藤村操の入水自殺
のことを連想した読者が少なくなかったのではないかと
思います。そして先生の死は、1年半前の御大葬の日の
乃木大将の妻との殉死とオーバーラップして捉えられた
ことと思いますし、漱石も、そのことを強く意識して
朝日新聞に連載したのではないかと思います。

 漱石は、この『こころ』で、「死」を葬りたかったの
では ないかと思います。妻との殉死した乃木大将に
対して、先生は 妻を残しています。「死」にピリオドを
打ちたかったのでは? そして「生」を志向したかったのでは?
と、今の私は思います。

  「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。
  平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、
  腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて
  始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が
  殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと
  答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったの
  ですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい
  意義を盛り得たような心持がしたのです。

         『こころ』より

 漱石は、乃木大将の殉死の1年後に、明治の精神を葬る
ために この『こころ』を朝日新聞に連載しはじめた。
それは11年前の 藤村操の入水自殺を、ようやく小説の中で
語ることが出来た ことでもあるのかなあ〜とも…。

 震災から15年のこの日、『こころ』を 著した漱石の
心の足跡をアレコレと考えてみました。
posted by student at 05:32| 日記