昨年の10月から12月まで、日曜の朝にラジオで「教育を江戸から考える」という番組がありました。教育史、思想史がご専門の京大の辻本 雅史さんが講師で、近代以降の学校教育と、江戸期の藩校や寺子屋(手習所)と対比させながら現代の教育の在り方を考えたり・・・、なかなか興味深いシリーズでした。
そして日曜の夜の文化講演会というラジオ番組で、昨年11月に「生きづらい時代のなかの教育」というタイトルの、哲学者で倫理学がご専門の阪大総長の鷲田 清一さんの講演は、この年末に録音したものを聴きなおしてたのですが、大晦日から正月にかけて考えさせられています。
鷲田さんはこの講演の中で「今の教育は、『教え』と『学び』の関係が反転しているのではないか」というような話をされていました。元来、質問する・訊ねるとは、「知らない者」が「知っている者」に問い掛けるものであるはずなのに、現在の学校教育では、「知っている者」である先生が児童・生徒に「知っているか?」を問い掛けて、答えられるかどうかを試すように質問したり訊ねており、児童・生徒は、如何に「知っている者」からの問い掛けに対して、「知っている者」を満足させるように答えるか、を目指している、という逆転関係を当然のように捉えているのが、現在の教育の問題点ではないかというようなお話です。
サテライトで『教え』と『学び』に関する幾つかの授業を受ける中で、『教え』と『学び』の関係について考えさせられ、そして今も途上にある身ですが、この講演での鷲田さんの話は、私にとってトリガーになりました。
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確かに、今の教育は、「知らないことを知る喜び」、「智や知のエクスプローラ」という側面よりも、むしろ、入学試験、資格試験、各種の競争試験も、出題者である「知っている者・団体」からの問い掛けに対して回答を通して、受験者である児童・生徒は如何に高得点をとるか、という構図が支配的なように思います。満点が上限の閉じた世界に『教え』と『学び』の関係が閉じ込められているように思います。
教育評価という言葉を耳にする機会が増えてきましたが、まさに工業製品を製造するQCの手法であるPDCAのサイクルが、教育現場に適用されることが多いです。満点という上限がある閉じた世界の中に『教え』と『学び』の関係が閉じ込められて、フィードバックされてしまった教育。本来、活き活きしているはずの『教え』と『学び』が、工業製品の製造ラインのように、P(指導要領や授業計画)のもとにD(授業)が行なわれC(試験、小テスト、ポートフォリオ)の関門の結果によって、A(解説、補習、進路指導)というフィードバック・・・という輪の中で、目標が「高い評価点」となってしまっていることも少なくないように感じます。そして教える側の教師も、学校評価というループの中に身を置いています。
もちろん、教育評価そのものや、学校評価そのものが悪いわけではなくて、またフィードバックループそのものが悪いわけでもなくて、むしろ、これらのそれぞれは、しっかりと活用すれば素晴らしい手法なのですが・・・
「知らない者」である児童・生徒が、智や知に対する興味・関心を持たせるようなパイロット役の案内人としての「知っている者」への問題提起としての質問や問い掛けは、大切だと思います。そして「知らない者」である児童・生徒の興味・関心に基づく疑問や質問を基軸にした『教え』と『学び』の関係・・・教師と児童・生徒が向かい合いながらも、でも智や知への探求者として、共に同じ方向を向く協同体としての『教え』と『学び』の関係・・・
現実には学校教育では、指導要領やカリキュラムの下、履修と修得が課せられ、そこには評価基準があり、数値化された評価点としての結果が求められ、ともすれば結果としての評価点だけが一人歩きをし、また、各種の競争試験や資格試験でも結果としての「合格」がモノを言い、それを得るのが教育の使命という側面ももちろん否定できないです。
私自身の研究テーマ「センス」において、今、大きなキーワードである鑑識眼 (expertise eye) の問題意識と通じるものを感じ、模索しながら、大晦日から元旦、あれこれと考えさせられました。